前回ソビエトを引っ掛けた、と書きましたがこれは軍事上のことであり、国際政治上とか人道上ではレーガン政権が特に非難されるべきことをしていたわけではない。奇想天外かつ、先進的な軍事技術を『構想』して、相手国の焦りを引き出したのでした。これまでカーター政権で進められてきた核軍縮という交渉ごとを、政治利用し使いこなしたわけです。

当時の世界ではこう言われていた。世界中の人全員を20回以上殺しても、まだ余るほどの核兵器が(米ソに)存在する」、と。私は日本で当時少年でしたが、ちょっとした大人はたいていこのような表現してました。今では懐かしい思い出です。島国根性の日本でもこれぐらいの危機感があったようです。日本は敗戦によって軍事的な門外漢に置かれ、軍事的に丸腰に近いからしょうがないと、経済闘争に持てる力の全力を尽くす人ばかりの国でした。それゆえに危険情報には敏感だったのかもしれない。昭和の末である、1980年ごろの日本の状況はこんな感じでした。

この頃の世界に視線を移してみると、アメリカ経済は近年まれに見るような絶不調であり、就任したばかりのレーガンは軍事的にはタカ派で危ぶむ人も結構いたし、なぜかFRBの公定歩合を高金利に据え置く政策で米国経済を逆流させているような状況だったけど、それでも冷戦は続いていて、米ソお互いのオリンピック不参加とか対立が続いていた。くまのミーシャですよ。

それにも関わらず米ソで戦略核兵器削減交渉も続けていたのはちょっとした奇観じゃないかと思えますね。冷戦も1955年の朝鮮戦争から数えてもう25年以上たってる。1945年のヤルタ会談の三者では、英国のチャーチルは除くとしても、ソビエトのスターリンとアメリカのトルーマン時代から35年も経てる。そしてソ連の代表と言えばアフガン侵攻で当時やや国際的な悪役イメージの濃くなった強面の『ブレジネフ書記長』ブレーガン

(アフガンは結局失敗しましたね)、片やハリウッド出身の演技的タカ派のレーガン大統領がトップですから。歴史も様変わりするようです、もとい、当初はこのメンツで軍縮会議が成立する素地などはそんなに大きくなかったように思われます。


世界中のオピニオン、大衆が核兵器の危険性を訴え続けて、その危機意識が米ソの担当者にこの交渉を継続させたとも言えるし、実はお互い厳しい予算の問題を抱えていた、と言ったら言いすぎになるだろうか。カーター政権はハト派の政権で、理性と論議を重んじていたことは有名ですが、イラン革命で大使館員を人質に取られてこの問題は政権の致命傷になった。で、彼は再選せずレーガン氏の当番となるわけですが、いわゆる双子の赤字
ボル
(写真はボルカーとオバマ)
で米国も苦境に立っていた。モスクワ空港も電力不足で暗い空港の時代でした。

実はこのような両者の経済条件であったからこそ、START交渉は延命されたのだと思います。その他、核兵器を溜め込みすぎてるのも事実でした。米ソの軍縮交渉では、戦略核だけではなく大陸間弾道弾・ICBMまで削減することを交渉の俎上に載せている。交渉する作業そのものにお互い慣れてきたわけではないでしょうけど、黙契に似た雰囲気があったのは否めない。

ワルシャワ条約の参加国を養うのにも苦労してるんだと思います。自由経済陣営では格下の国から経済などで突き上げられるのも事実で、米ソの政権担当者もお互いが苦労してる時期なのでした。このような共通の雰囲気があるから、実りのないレイキャビク会談とかであっても数度の会談を繰り返す素地になってる。交渉したら状況的に相通ずる条件があるわけで、現実に交渉をするほうが理にかなってる経済的(社会的)条件だから会議は長続きしてる。この辺をレーガンと大統領側近の観察眼に発見されたからこそ、ソビエトへの積極的なアタックになったような気がします。

軍縮によって始まった冷戦の終結、というわけです。ケネディの有名なダモクレス演説やカーターの愚直さは無駄にならなかったわけです。


そう考えると戦略核の交渉にしろ、ICBMの交渉にしろ、両者は軍縮に応じたような気がしてくる。公表してるデータなども信用に足るのかもしれません。雰囲気はそうなのですがあくまで想像ですから、現実のデータにはどうなってるのでしょうか。

続く